タッチフットボールチーム・奈良マスケッターズ
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チームの歴史




1998年から関西リーグに参加しているマスケッターズですが、チームの歴史を回顧録風に書いてみました。


1997年以前
チーム創設者である中部が「タッチフットボール」という競技に出会い、「マスケッターズ結成」までにはしばらくの時間がかかった。タッチフットボールというのは、「タックルを除き安全にした6人制のアメリカンフットボール」のことである。中部はまず、アメリカンフットボールに出会う事になるのだが、中部が京都の大学2回生の時、母校のアメリカンフットボール部が「甲子園ボウル」と呼ばれる学生王者決定戦に初めて出場する事が決定した事から始まる。
当時、アメリカンフットボールという競技について、「ヘルメットかぶって、タックルするやつ」くらいの知識しかなったのだが、同じバレーボールサークルのT氏から「見に行こう!」と誘われ、学内でも異常な盛り上がりを見せていた事から前売りチケットを購入。当日、甲子園で観戦するのだが、1プレーごとに「グシャ」「ゴチャ」と止まり、「一体、何が起こっているの???」という状態だった。その日は、訳の分からないまま帰宅。数日後、そのT氏の下宿で、スーパーファミコンの「テクモスーパーボウル」というアメフトのゲームでルール解説を受ける。段々ルールが分かってきて、「ひょっとして、このスポーツ、戦術的やし体力いるし、めちゃめちゃおもしろいのと違う?」と思う様になった。3回生の終わり頃には、見るだけじゃなくて、自分でもやってみたくなっていたのだが、何の知識もなくひょろひょろの人間がいきなり出来るわけでもなく、当時、塾の講師のバイトをしていたのだが、塾長からも「骨折してコマに穴が空いたらどうするねん!」と言われた事もあり、断念。アメフト雑誌を眺める日々が続く。その雑誌の終わりの方にタッチフットボールと呼ばれる競技がある事を知り、「これなら出来るかな?」と少し思い始める。4回生の終わり頃に、同じ塾の女性講師がなんとタッチフットボールをやっている事を知り、「女性でも出来るし、自分は一体、何でここでくすぶっているんだ?」と疑問を持ち始める。中学で野球、高校でバレーボールをやっていたのだが、これが体育会的なノリの、今時は禁止されている様な事が平気で行われている様な厳しいクラブやったので、体を動かしていない生活になんとなく充実感を得られていない事を実感していたのだった。
1997年
大学を卒業し、アメフト雑誌「タッチダウン」で、メンバー募集のコーナーで奈良のチームがないか、毎号確かめるが、その気配が全くないため、タッチダウン社に直接電話をかけ
▲夜の平城宮跡で練習していた頃。
 デビュー#は菊池さんの42番。
て、奈良にチームがないかを確かめる。その時に奈良にチームがない事を告げられるが、当時関西連盟の理事長である菊池さん(ギルドグレード外道ズ)を紹介され、電話したところ「うちのチームに来ない?」と誘われて、6月に見学に行ったその日に入部を決断。菊池さんから親切にタッチフットボールを教えて頂き中部のタッチフットボールの原点はここにある。7月に長浜ドームで行われたEFL公式戦に参加。当時の関西連盟はVFL(全国大会を目指すリーグ)とEFL(どちらかというとリクリエーションを中心としたリーグ)に分かれており、ギルドは、EFLに所属していた。中部は、VFLの方のチームに興味があったのだが、VFLのチームに当てもなく、将来的には奈良にチームを作る事を決意した。その時のために、高校時代のクラブの同級生木下と、大学で同じバレーボールサークルで1
▲中部がギルドに引きずり込んだ木下
 (右)と藤本(左)。
つ年下の藤本をギルドに誘った。二人とも乗り気で参加してくれて、これが将来できるチームの基礎となった事は言うまでもない。ギルドは、2週間に一度の練習で、タッチフットボールをやりたくて仕方がない3人は、平日の夜に集まってキャッチボールをやり出した。夜の平城宮跡は、とても暗くて電灯を探したり、「蛍光塗料を塗ったりしたら、出来るんじゃないかな?」とかいろいろとアイデアも出した。10月頃には、お互いの友達を誘ったりして、平城宮跡で練習を始めた。この頃、箕浦、杉本が参加。ラッキーだったのは、木下の会社の先輩が神戸大学のアメリ
▲98年3月に浜寺公園で行われたギ
 ルドでの最終試合。当時はWRでした。
 TDを取ったところ。
カンフットボール部のOBで練習に参加してくれて、監督を引き受けてくれた事。全くの素人チームからのスタートだったが、基礎中の基礎を彼から教わる事となる。ギルド当時、ルールもわかっていないし、タッチフットボールについてもあまり分かっていなかったため、どこかVFLのチームに2〜3年くらい所属してから独立という風にした方が良いのかとチームメイト達と話し合った。結局、中辻監督就任と1からチームを作っていくのも面白いかな、ということになり、1997年秋、名前未定のまま、奈良初のタッチフットボールが平城宮跡で誕生する事になる。
1998年
98年の春の大会から参加する事を決定するが、メンバーが足りない。今でこそ、インターネットが情報源となるが、当時は今ほど浸透していなかったため、タッチダウン誌のメンバー募集のコーナーに掲載をお願いする。木下邸
▲平城宮跡での練習。当時は5
 〜6人集まれば良い方でした。
の近くの夜の公園でキャッチボールをしていた時に、携帯が鳴る。話しを進めていくと、タッチフットボールのチームを探していたらしく、うちとしても是非来て欲しいと懇願。「どこに住んでいるんですか?」と聞いたところ、「神戸」との回答が。正直、この時、この人は1回来たら、もう二度と来ないかもなと思っていたのだが、彼こそが、チーム最古参となる、天野である。今から考えると彼も毎週毎週神戸から練習のために通ってくれるこの情熱こそが今のマスケッターズを作っているのかも知れない。
いろいろと決め事があるので、ミーティングをするからと連絡しても、集まったのは、木下、箕浦、中部の3人。主将には木下が就任して、チーム名を決める事になる。案としては、「TINKERS(下手な職人達)」や「ヘキサゴン(六角形)」などの候補があったが、木下主将が「アメフトのショットガンという体型があるのは知っているだろ。ショットガンよりも何世代か前の世代の銃にマスケット銃という銃があるんだけど、ショットガンには劣る未熟な銃だが、戦術や情熱で劣勢でもハード面を越えていく事ができる。すなわち、優秀な選手が揃っているチームに対してでもでも練習を積み重ねていくことによって勝つことができるという意味だ。しかも、「ALL FOR ONE、ONEFOR ALL」という言葉があるだろ。これは、ラグビーの言葉のように言われているけど、最初にこの言葉を使ったのは「THREE MUSKETEER
▲試合当日はこんな人数。
S(三銃士)」なんだ。まさに、タッチフットボールの精神にぴったりだろ。」と語ると皆は嗚咽し、涙ながらに木下主将に握手を求めて真実の友に出会ったと満場一致でチーム名がこれに決定した。 と、いうのが建前になってはいるが、本当は、ジャンケンで決まった。 そして、ユニフォームデザインはEFL在籍の「ギルド・グレード・外道ズ」のものである。 これは、以前、木下、藤本、中部この3人はギルドに在籍したため、奈良でチームを独立させる際、ギルドに尊敬と敬愛の意味を込めてそれに倣ったものである。チームカラーは「ネイビー&イエロー」で、これもジャンケンで決定した。
その後、アメフト経験者の前田から電話があり、必要最低限の人数が揃ったところで3月下旬、関西学院大学との練習試合に臨む事となる。マスケッターズQBは
藤本で挑んだが、結果は2−44と大惨敗。当然といえば、当然の結果であった。その2点も、関学側のがエンドゾーン内でのスナップミスでこちらの力で奪ったモノではなかった。アメフト、タッチフット経験者は中辻監督一人。これからの道のりの険しさを誰もが感じていた。はずだったが、春の第7回シュガーボウル関西オープン予選1回戦で、中辻がQB先発、モンテメール(神戸大学タッチフットボールOBチーム)との対戦で、なんと勝ってしまったのである。こちらは、タッチフットを初めて数ヶ月、相手は大学経験チーム、更に2回戦の桃山学院大学戦で20−24と善戦。この試合が、チームに思わぬ勘違いを起こし、1年以上に渡る公式戦連敗街道の始まりとなる。
秋のファイナルタッチ予選が始まるが、戦術の理解、能力等の理由から中辻がQBとなる。彼はもちろん監督だし、全くプレーコール等の意味を理解していない者がほとんどだったので、当然といえば当然だが。第1週は元関西連盟理事長の山際氏所属のエアマジック。台風一過の少し雨の中でのどドロンコ試合となるが、6−24で敗戦。第2週はリーグ参加が同期となるブルーライトニング戦。前週に2バックのランを展開させていた事から、マスケッターズはラン守備で対応したが、なんと徹底したパス攻撃で12−20で敗戦。第3週はケルベロス(現ドラゴンスクリュー)に縦横無尽にやられて、0−49で敗戦。経験者がほとんどおらずチーム結成1年未満の若いチームがそうそう勝てるわけもなく、リーグ戦全敗でマスケッターズ1年目の挑戦は終わる事となる。


つづく




2001年春の大会後、新入部員が増加し、マスケットネイビーのユニフォームを追加注文するべく、動きかけるが、そのユニフォームを注文していたアメフト専門店がつぶれてしまい、新しい店に注文をするが、「どうせ追加して作るくらいなら、チームごと新ユニフォームにしよう」という意見になる。

カラーは赤であるが、これは、チーム創設当時、関西VFLに赤色を採用しているチームがなかったため、「次、作る時は赤色に」という事に基づく。ナンバーの色、ふちどりの色等を「正義の拳 ジャンケン」で決定し、写真のユニフォームが完成した。

旧ユニフォーム(青×黄)  現ユニフォーム(赤×白)



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